立 ち 石

 

立っている石の格好で、下になるに従って、小さくなっている傾向のものが多くあります。

 

石は安定が大切です。

 

前項の繰り返しになりますが、安定する為に、一般に石の底部が頂部に比較して大きい台形が良いように思えます。

 

しかし、安定の面で見ても、石の上部に比べて下部が細くなっている一見不安定な様子の【雲ノ平】〔この雲の平は、瀬田川石であり、京都・九十九会創始者で、初代会長でありました故・長村資佳三さんのご愛蔵の石です〕は、実に安定した存在感がありました。

 

この存在感と魅力は何であるかに、長年にわたり解答は得られませんでした。

 

さて、次の二つの写真を見て下さい。

 

この左側の石は、もう30年くらい前に、庄内川・松川橋のあたりで発見しました。当時から【雲ノ平】に魅せられていた私は欣喜でした。 

【雲ノ平】と、この庄内川で得た立ち石とが、共に下部が小さくなっている方が良いということは、人は上部が大きい方が自然であると感じることを意味しています。

これは、前項の【下を向いて歩く人間】で、書かれた、下を向いている人間の視界の隅では、大きい建造物・山々などは覆い被さった感じで、大きく感じていることに、原因があります。

 

故に、下が小さくなっている方が安定感があり、スマートであり、お洒落ですらあります。

 

この現象を体験して、隠れて気づかない程深い人間の心の綾を見た思いがしています。

 

この種の面で見て、既にすべての水石は抽象のものです。

 

こうした抽象の世界で遊べる私たちは幸せであると思えます。

 

 



庄内川石・元 

[高さ19cm]

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庄内川石・変形

水石、山水石

 

例のコンピュータの変形で、下部を大きくしてみました。

 

確かに、変形させた方は、安定感は出ている?ようですが、全体から受ける印象度合いというか、すっきりしたスマートさのようなものでは左側の元に負けていて、問題なく元の方が魅力的です。

 

鑑賞にたえ得るのは間違いなく元の方です。

 

繰り返し同じ記述になりますが、これは[下に視点を置いて歩きくことで、立っているものの下部より上部が大きいと感じるのが自然]である、となっている人間の習性の結果です。

 

少なくとも、変形写真の石と元の石とが河原にあったとしたら、持って帰るのは元の方です。誰も変形された方を持って帰らないでしょう。

 

このように、山水石は、簡単に想像できないような感覚を使って、石から美しさを感じ取っています。

 

まだ他に、この種の現象が[石を観ること]で起きる話題を見付け得るかも知れません。

 

若し何か興味のある話題に思い至れれば、随時取り上げますが、現在では、今までの体験から考えられるテーマは出尽くした感があります。

さてこのあたりで、結論を纏めることにします。

 

 

皆さんに観て戴く事で成り立っている盆栽、生け花で常識である[観て戴く人の方向に、全てが向いている]事の為に、水石では

 

【左右に逃げがないこと】

 

【主峰・主部などが、石の中心に向かっていること】

 

【主峰・主部などが、うしろに倒れていないこと】

 

の3項目に留意すべき

となります。

 

 

これに関して[久遠]の文もご覧ください

 

 

 

 

ここで、もう一つ余談ですが

【忘れてはならないお話】

 

に行ってみます

 

石は天然のものです。

 

故に、時に何の疑いも持たず[石は天然自然の状態、つまり川に転がっていて、水流に揉まれている状態が最善である]と考えがちです。

 

しかし、石は【室内】で鑑賞します。

 

室内で鑑賞する時に、果たして[天然自然の状態、つまり川に転がっていて、水流に揉まれている時の石の肌とか、石の色調などが、そのままで鑑賞するものとしての最善な状態である]のでしょうか?

 

室内という場所は、人工の建築物の中にあります。室内では[雨は降りません][頬をなでる秋風もふきません][川を流れる水の音も聞こえません]

この空間で[自然]を感じられるとは、どんな状態のものでしょうか。

 

古来の【山水石】はお座敷の床の間などが似合うものとして、扱われてきました。ここに、回答を暗示するものがあります。

 

明治以前の我が国で【山水石趣味】が起きた原因は、【山水石】を通して、室内で[自然]を感じ取りたい気分を基本に持っていた故に起きたものと思えます。

 

もともと人工のものである室内で[自然さ]を感じ取り易い状態とは何でしょうか?

 

古来の室内で石を観て戴く場合、絵画、お茶のお道具など調度品と同じ状況で観て戴くことになります。

故に石は、それら、調度品、絵画、お茶のお道具などとの調和がとれて、無理なく心にしみるものであったほうが良いと思われます。

つまり、いわゆる[時代がついた]石の方が調和します。

例えば、掌で撫でさすり手の油のようなものが石の表面に付いて、時代が付いた感じの方が、他の調度品、絵画、お茶のお道具などとと調和し、心を和ませます。

調和するが故に、多くの人は、他の調度品たちとは異なった[自然の世界]を無理なく石に見いだすことが出来るのです。

天然のまま状態の石は時に粗野であり、絶妙な風合いを持った調度品、絵画、お茶のお道具などの中にあって、天然のまま状態の石が持つ様子は異質と感じられ、[自然の世界]をそこに見出す気分になり難いでしょう。

重ねて申しますが、調度品、絵画、お茶のお道具などと調和するために、[石に時代が付いている事]は、必要であったのです。

 

展覧する事は、観て戴くことです。

 

ひとさまの前に出る時に、多くの女性は化粧します。スッピンは失礼ですし、美しくないもののようです。

 

展覧会に出品された天然のままの石を観る人の多くは、スッピン状態と感じられるかも知れません。

 

大方のスッピン状態の石は、人工の場所である室内が似合いません。

 

このあたりに注意をはらい、鑑賞にたえる石とは何であるかを、深く考え、心の深いところで感じ取りましょう。

すくなくとも、【伝承石】に感じる格調の高さから、眼をそらさない姿勢を保つ心がけを持ちましょう。

そうすることで、格調の高い石が手元に集まってくると、私は信じています。

 

 

 

 

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これで、言いたいことは大体終わりました。

以下は、これらのテーマを横目で見ながら、持っている石の写真を載せ思い付くまま書いてみます。