注視すること

真正面に視点をおき、つまり眼球を動かさないで眺めた場合、左右で考えて、人が物の存在を認められる範囲はとても広く、100°を越えます。

 

しかし、実際の視野角度は心理状態で変わります。

 

例えば、対象に興味を持った場合、「見詰め」ますから視野は途端に狭いものになります。

 

運転をしている人は、前の車のお尻ばかりを見ているせいか、横から出ようとしている車に気付かなく、進路をさえぎって停車して顰蹙を買います。

前の車と自分との間を自分の領地だと感じているからかも知れませんが、多くの人は、横から出ようとしている車に気付かないことがあるようです。

 

これは、運転時に視野角が狭くなっていることを示しています。

 

風景を眺めるときにも、漫然と眺めているときと、何かに興味を持って眺める時とでは、現実の視野角度は大幅に異なっていると考えて差し支えありません。

 

われわれ人は対象に興味を持って見詰めたいとき、物理的に見えてしまっている左右(上下)の風景の中から、興味の対象を選び出して見詰めています。

 

ここで特にご注目戴きたいのは、眼に入ってしまう風景の中から、興味を持ったものを注視している時の心の動きに就いてです。

 

印象の度合いで考えれば、注視している対象が支配的に密度の大きい印象になっています。

 

しかし、見詰めている対象は多くの風景に取り囲まれています。

 

取り囲んでいる幾多の風景は見つめている対象の間近から遠くになるに従って、徐々に印象の密度は薄くなります。

この現象は左右のみでなく上下にも起き得ます。

 

これを少し見方をかえ、心の動きを考えます。

するとその時は、意識を、対象の[中心へ中心へ]と集中させる動きになっている事に気付きます。

注視することは、対象の[中心へ中心へ]と心を集中させる事です。

 

この心理的動きが、一個の石で風景を感じ取る時に、その石が[その石の中心に力が集まっている格好]が望ましい結果を招く原因になっています。

 

この結果、水石は[集・中心的]である格好をしている方が安定します。

 

 

これは、見つめる対象物が風景に囲まれた中心にいる感覚を造り出します。

 

普通、水石は(正面から見て)石の片側に目立った部分がある例が多いです。この目立った部分のことを、山を表現した石では「主峰」と言います。

 

今一度、写真3【遼遠】を見て下さい。

 

この石は確かに山を感じさせています。しかし、こんな格好の山が現実にあるかと思って考えますと、どうやら無さそうです。.

 

この写真の石の格好に何か秘密がありそうです。

 

この石の主峰は、石の中心方向にむかって覆い被さっているかのようになっています。

 

この様子があって【遼遠】に山を感じることを見過ごしてはならないと私は考えています。

 

そして、この格好を私は[集・中心的]と言っています。

 

【14_集中心的の意味】の項目をご覧下さい。