左右の[逃げ]

 

この石は、瀬田川の産。1995年前後に川に潜って底から上げられたものとか聞いています。

 

勿論、底部は切断された石。

瀬田好きの我々が変に珍重する金梨地肌真黒石。

 

大きな石の一部を切り取ったものですが、「左右に逃げがない」という意味で、山水石として典型的な格好をしている為にここに取り上げました。

逃げを感じる事へ

【遼 遠】写真3 

[左右57m]

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写真4

一つの実験へ

 

叩くとキーンと鳴り、硬質。

このような硬質の石でありながら、この軟らかい曲線を持ついる石を多く見る瀬田の石は、まさに独特であると感嘆してしまいます。

 

さて、「左右の逃げ」があるという表現は、水石を正面から見て、石の左右が後ろにさがっていることを意味していて、昔から、石の専門家の間で常識の慣用語です

 

この【遼遠】は、まさに逃げの無い典型です。

 

写真4で見られるように、入り江があるかのように手前に湾曲していて、逃げがないどころか、迫っています。

 

ここで、少し考え方を変えてみましょう。

 

仮に、高速道路を走っている場合を想定して下さい。

 

走る車から周囲を眺めた場合、周囲の田園、家々、山々が次々に行き過ぎます。

ふと気付くと、それらが全部自分を取巻いているように感じています。

何時、何処にいても、風景の中心に自分が居るような気がします。

不思議ですがそう感じる傾向になります。是非試してみてください!

 

そして、遠くにくある山々が自分を取り巻いているかのように感じます。

 

現実は、山々が取り巻いて存在してないにも拘わらず、取り巻いていると感じるのは、単に、人間が[取り巻いていると感じている]に過ぎないのであると考えるのが本当です。

 

 

この現象を、私は、二つの眼球で距離を感じとれない距離にあるものたち、つまり遠距離のもの達を、結局は[同距離にある]と勘違いしているらしいから、自分の周囲をそれらが「取り巻いている」と感じているのであるとの結論に至りました。

 

この感覚は、人が進化した過程で遺伝子に刻印され、我々に伝わっています。

 

水石を見るときは、両眼の視差で距離又は遠近感がよくわかる距離で見ていますから、石の[かたち]が、この[風景に取り巻かれている]感覚を満足していると安心する事になります。

 

逆に、石の端が後ろ方向にさがっていると(つまり[逃げ]が左右にあると)明らかに風景を感じるに不自然、又は不都合となるわけです。