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さて、普通水石を鑑賞するときは、水盤に入れるか、又はその石にピッタリ合う台を作り載せて鑑賞します。
この場合、それらを殆ど例外なく地板又は卓に載せます。
この状態で鑑賞するのはもう長い歴史を持っています。何故そうするのでしょうか?
それは、地板・卓に載せることで、より美しく見えるからです。
では、何故美しく見えるのでしょう。
私は、見る石に[或る空間の中にいる感じ]を与えるからである、と考えています。
石を展覧するのに、石と、地板または卓との大きさ・格好などとのバランスに気を遣わない人は少ないでしょう。
不思議に、最も良いバランスというものはあるものです。
このバランスが絶好である場合、殆どの観る人は良いと感じます。
これは、何故でしょう。
それは、我々人間は風景を見る場合に、先ず、漫然と風景を眺め、興味があるものを見付けると、それに注目します。
そして注視が始まります。
注視をしている時は、注視しているものの周囲にある風景も眼に入っていますが、気持ちは注視しているものに集まっています。
気持ちが集まっている目的のものは、いつも風景などで囲まれています。
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こんな体験を重ねてきた人間は、
鑑賞する石の周辺に地板・卓などで作り出された空間があると、
実際の風景での体験、
つまり目的のものが風景などで囲まれた感覚を呼び覚まされ、
落ち着くのであると、
私は考えています。
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石を観ることは、このように、普通気も付かない程心の奥に隠された感覚を呼び覚ましながら行われています。
ここに、石を観ることが抽象的な行いになる端緒を見ることが出来ます。
この観点を更に大きくし発展させてみますと、山水石の鑑賞とは[風景を見てきた人の心に残された風景感を根拠にして抽出されたイメージを呼びさますものである]と言い換えることが出来ます。
ここで、それらの気も付かない程心の奥に隠された感覚に関しての全てを語れると考えていませんが、自身の中で明らかになっているものに就いて更に考えを進めて行きたく思っています。
先ずは、注視することから始めます。
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