下を向いて歩く人間

 

先ほども書きましたが、人はいつも足下に注意を払っています。

 

何かに躓いてヒックリ返ってはおもしろくありません。

大体、人間の首は、上を向くより下方向を向く方が楽に出来ています。

 

結局、人間は、大方下に視線を定めて生きているに違いありません。

 

下方向に視線を定めた場合、眼の隅に見えている高いものは、どんな具合になっているでしょうか?

 

次の写真を見てください。

 

注意して戴きたいのは、遠くのマンションの形です。

 

マンションの上部が下部より大きくなっているではありませんか!

 

これは、視点(見ている視線が定められた点)に向かって全ての線が集まるからです。

 

下方向に視点を定めれば、高いものの上はこの写真のように大きめになります。

 

 

 

この現象は心理的に、そのように受け取っているものではありません。

平野を見る時の[遠近感]に似た現象が上下に現れたに過ぎない、つまり[遠近法]で説明出来る単なる物理的現象です。

大きい建造物の近くで、下を向いている人間の予想外に広い視野の隅で、建造物の上部は大きく見えているのです。

 

にわかに信じ難いかと思いますが…

 

 

兎も角、大きい建造物の近くでは、建造物は覆い被さっていると人は感じています。

 

さて、この現象は、水石にどう関わっているのでしょうか?

 

ここで問題にしたいのは、今まで石の[左右の逃げ]などに関する話で始まったのですが、果たして、[上下ではどうなっているか]について考えたておきたいと言う事です。

 

山の麓近くで山を感じるときに、山の頂点は、どう考えても裾より遠くにある筈なのに、山が覆い被さっているかのように感じる事が多くあります。

 

これは、山が巨大であるので威圧されるからかもしれません。

 

若しかしたら、少し下に視点を置く習慣のある人間の体験のせいではないかと私は考えました。

 

高い山の裾にいて見上げる場合を考えますと、山の頂点も中腹も見る人からの距離は、共に遠くにあります。

 

少なくとも、人の二つの眼、顔の左右に付いた二つの眼の視差で距離を感じ取れるには、余りに遠くに山の頂点・中腹はあります。

 

知識として、中腹より頂点の方が遠くにあることを知っているのですが、脳味噌に届く映像では同じ距離にあるもののように捉えていると考えられます。

そうであるから、主に下の方向に視線を向けて歩いている人間は、頭上にある(実際には同距離と思っているらしい)山の中腹・頂点が頭上に覆い被さっていると感じているのです。

 

富士山の麓で間近に富士を見上げたとき、富士山が覆い被さっているように感じたことがあります。新幹線に乗って眺める富士山は、実に長い裾をひいています。しかし、その裾の端に立って富士を見上げると覆い被さっているのです!

 

先ほども触れましたように、広角レンズで下向きに地面を撮影したとき、画面の上部の隅にある建物の上の方が大きくなる(これはレンズの癖でなく、先程も述べましたように、遠近法で説明できる単なる物理的現象です)現象が、ここで関わってきます。

これらの結果、人は、山は人の頭の上から覆い被さっているものであると、印象付けられています。

 

山水石の場合、山形の石で考えて、山の頂点は、見る人の方向に向かっていなければならない、又は、見る人の方向に向かっていた方が良いという事になるという考えを導くことが出来ます。

 

 

余談ですが、マンガでビルを描く時、大方のビルは上部を大きく描きます。

 

人がビルの上部を見る時は、[見上げる]わけですから、確実に上部は小さく見えている筈ですのに、これは変です。

しかし、マンガは読む人のイメージにうったえる絵であるべきですから、こうなるのが自然なのです。

 

山水石も同じくイメージのものですから、同じ行いをすべきです。

 

 

現実の山を見る人には、山は近くでは覆い被さり、遠くでは、少なくとも後ろに倒れてはいません。

 

室内で行う水石の鑑賞は、二つの眼で遠近がわかる距離で見ます。

この距離で見た場合に山の頂点が後ろに倒れているのを、人は[立派な山・存在感のある山]と感じ得ません。

 

さて、“逃げがあってはならない”“集・中心的であるべきである”“頂点が後ろに倒れない”などと書いてきましたが、盆栽、生け花ではどうなっているかを見て下さい。

 

盆栽、生け花では全部これらを守って作られていて、興味深いものを感じます。

 

さて、ここで今まで書いてきたテーマの纏めらしきものを試みます。

 

 

展覧された水石・盆栽・生け花などの前に立ちます。

 

何となく眼を奪われると言う状況を作る為に、“逃げがあってはならない”“集・中心的であるべきである”“頂点が後ろに倒れていてはいけない”などを満たしていることが、基本として必要です。

 

これは、観て下さる人たちの方向に、石の全てが向いている状態が望ましい事を意味しています。

 

つまり、観て戴ける人たちに『私を観て下さい。そして一緒に美しさを感じ合いましょう』と観て下さる人たちに[手を差し伸べる]気持ちになるのが本筋であると云っているのです。

 

また、一個々々の石自身が持つ個性は[これらの条件を満たしていて初めて観る人々の心に訴えることが出来る]ものであると私は思っています。

 

立ち石に戻る

 

 

これらの気持ちに頓着しないと、展覧された石から[メッセージ]を感じなく、展覧会場で誰も気付かず通り過ぎてしまいます。

 

私は、石が持つ個性に話を及ばせていません。

ここで私は、単なる[常識]のような一般的に必要と思われるものに関して、何故それが常識であるのかとの観点から、説明を試みたに過ぎません。

 

水石は作るものでないから、或る程度の妥協のような事は仕方ないという話はよく聞きますが、明らかな欠点はあってはなりません。

 

明らかな欠点とは何であるかを、充分に承知した上で、厳密に選んでいけば、必ず素敵な石が目の前に現れます。

 

明らかな欠点とは、本来、常識に類するものですから、常識に関しての間違いをしないようにして、観る人の眼を奪う石を探しましょう。

 

 

さて、京都・九十九会、初代会長の長村さんの【雲ノ平】という有名な石があります。最初、見たのは私が石を始めた頃でした。

 

立ち土坡石とでも言うのでしょうか、この石は、実にユニークな格好をしています。

 

立っていて、その上部に[平野に山]です。

 

このように立っている石の姿は、普通下になるに従って、小さくなっています。

 

世の常識で[石は安定が大切である]となっていて、安定する為には一般に石の底部が頂部に比較して大きい台形が良いように思えます。

 

さて、次ページの二つの写真を見て下さい。

 

この左側の石は、もう30年くらい前に、庄内川・松川橋のあたりで発見しました。

当時から【雲ノ平】に魅せられていた私は欣喜でした。