平野の纏め

 

前項【平野?】では、結局[地平線]の話で終わってしまいました。

 

本項では[平野はどのように見えているのか]に関して考えたく思っています。

 

漫然と眺めている場合、200メートルまでの平野を、[眼下に広がった平面である]と感じていると私は考えています。

 

土坡石で、平らな面を上から眺めて不都合がないのは、この平野の感じ方に矛盾しないからでしょう。

 

少し話を戻し、水盤に砂を敷き詰め、その上に石を置く鑑賞法の話に行きます。

この場合、砂の表面は平らにすればする程、美しくなります。

 

砂は茶色が好まれています。正に土です。

 

人間は、三半規管とかで、平野に対し直立出来ると言います。産まれてこのかた平野に、又は平面に殊に敏感です。

故に、砂は平らに、平らにとしなければならないようです。

 

水盤の場合、置かれた石と砂との接する場所は、乱れがあってはなりません。

何故ならば、それは、[石と砂との境界線に地平線のイメージを重ねている要素が潜んでいる]からです。

 

遠くに建物があったり、樹木が生えていたりしても、結局は整然とした一本の線を感じ、それを地平線と同じに感じているに違いないので、我々は、[山は整然とした地平線の上にあるものだ]と思っているのです。

 

私事ですが、私は水盤展示を行いません。理由は簡単。私は、不器用であり、その上することがいい加減で、せっかちでもあり、砂をその様に綺麗に整える自信がないからです。

 

 

さて、人は歩くとき、必ず足元に注意をはらっています。

下を視界に入れて歩かないと、危ないからです。

 

足下をいつも見たり、注意したりしていると言うことは、

[平野は、眼下に拡がったものである]と意識下で感じていると考えて間違いありません。

 

 

 

人が普通使っている視野角度は50゜と言われています。

すると、地平線に視点を定めた時の地平線より低い方向だけで見れば約25゜です。

しかし、下に注意を払う習慣を持っている人間には、実質上、25゜の何倍かの視野角度になっています。

地平線の説明の時の写真は、上は空、下は地面を写しています。

この写真は、人が直立した場合と同じ位置にカメラを設置していますから、空と地面は均等です。

しかし、下を向いて歩く人間の視野の大方の範囲を地面が占有します。

結果、地面は足下に広がっているものであるとの印象を受けている事になると私は考えています。

 

下の方向を見て歩く人間は、平野を[足下に広がる平らなもの]と感じていると考えて良いのだと、私は言うのです。

 

ここで、平野の見え方について述べる意味は、水石の鑑賞が[何故、上から眺めて問題ないのか]に対する納得の為です。

 

 

水盤の砂も、地板、卓などの表面も、石の置き方も[乱れ]があると気になってしかたないのは、根に[平野]を感じているなかで、

[1]遙か彼方の地平線を直線と感じ、

[2]同時に足下の平野を真っ平らと思っているからです。

 

遙か彼方の地平線を左右にのびた直線と感じているので、目の前の石は、左右が迫っているか、少なくとも左右に真っ直ぐでないと、見る人は[何だか変だ]となる事になります。

 

足下に広がった平らな平面を感じている我々は、遙か彼方の地平線をも感じ取り、この二つを絶妙に複合させ、水盤の上で、大自然を感じ取れるような展示方法を、先人達の優れた感性が開発したのです!

 

なんと素晴らしい事でしょうか。

何と素敵な遺産でしょうか。

 

 

水盤にしろ、地板、卓(机のようなもの)に石を置き、上から眺めて変に感じないのは、水盤、地板、卓の平らな面に平野を置き換えて感じているからなのだと、私はここで言っています。

 

 

 

表現を変えれば、人間の眼から得られた現実の山々を、眼下に拡がった平野の端の地平線上に左右が真っ直ぐに立っていると感じている訳で、それらは平野に安定していて、眺めまわすと、自分を取り巻いているようにも感じていることになっています。