山 水 石

伝承石と山水石の将来

 

一個の石を水盤に入れたり、木でぴったり合う台を作るなどして、部屋の中で見て楽しむ石のことを何故か[水石](すいせき)と称しています。

 

水石なる呼称は、どのくらい古くから使われていたかについて、はっきり知りません。

 

表紙の記述の繰り返しになりますが、水石という呼び方の説明には、[山水石]の省略であると言う説と、石は水をかけると色調が濃くなる為「石は水をかけて鑑賞するものである」と言う説とがありますが、呼称はともかく、石を室内で愛でる趣味は、日本に古くからあったという記録があります。

 

明治以前の時代の石について色々述べられている[伝承石]いう本(著者:高橋貞助/発行:石乃美社・1988年発行)を元に、少し書いてみましょう

【夢の浮き橋】

 

名古屋市にある徳川美術館に夢の浮き橋と言う石が蔵されています。

 

これは、中国からわが国にわたり、最初足利将軍家のものだったとのことですが、南北朝時代に後醍醐天皇の蔵するものになりました。

天皇は戦乱のさ中にも身から離さず、笠置、吉野に行幸の際にも常にこれを懐中にして、憂悶をなぐさめられた、と[伝承石]に書かれています。

 

石の底に[夢の浮き橋]と朱漆で銘が書かれていて、古筆家は、天皇のご宸筆であると鑑定しました。

 

銘の由来は、石の両端のわずかな部分のみで安定し、底部の隙間を23枚の紙を通すことが出来るので夢の浮き橋と銘じられとされています。

 

護身用としても使われたと言われ、興味深いものがあります。

写真で見て、石の先が尖っているからでしょうか?

 

[伝承石]なる本では、わが国の石の趣味の歴史は、室町時代の五山の禅僧たちによって開かれ、その時代の僧侶は詩文に長じ、海外文化の紹介者でもあり、当時の中国の南宋は、石の趣味が盛んであり、南宋に渡った彼らが石への好みをわが国にもたらしたものであろうと推測しています。

 

また、後醍醐天皇(12881339)と同時代にいた五山の高僧の一人(虎関師錬)が石への詩文を残していて、共に石を好んだともいわれています。

 

この石は、その後、幾多の戦乱をくぐり抜け、後に、秀吉、家康を経て、尾張徳川の所有になったという、幾多の紆余曲折をへた石です。

 

かたちは、現在[土坡石](どはいし)と称している類に属します。

つまり、山であろうか、高台であろうかと思われる隆起を左端に持ち、平野のようなもので、広がりを感じさせているもので、まあ、風景の一部を象徴していると見るべきでしょう。

【末の松山】

 

 

この石、【末の松山】の言い伝えは、中国揚子江の沿岸、鎮江の金山寺から渡来し、当時、相阿弥が、唐に渡る禅僧に命じて取り寄せたと言われています。

 

後醍醐天皇没後145年経った文明15年(1484)、足利義政が東山の月待山の麓に東山殿を作ったときに献呈され、義政の所有になり、後に織田信長の手中になったと書いています。

 

現在、西本願寺の[寺宝]になっています。

 

その由来について、興味ある話が書かれています。

本願寺は、もと現在の大阪城本丸の跡にあって[石山本願寺]と呼ばれていました。

 

信長は、戦略上重要なこの地を手に入れたいと望み、寺を攻めましたが、全国の門徒が団結し十一年間の攻防を経ても落ちない為に、やむなく天皇に上奏して和を乞い、勅が下されて天正八年、ようやく兵をおさめたと言います。

 

この時、信長から寺に[呉器一文字茶碗]とこの【末の松山】が贈られて、石山城と交換したと伝えられている、と信じられないような話が書いてあります。

 

石の底部は切ってあると書かれていますが、このように見るからに硬い石を切ることは、当時大変な仕事であったでしょう。

 

石から山岳を感じたいが為に、大きい努力で切断までしたことに見られるその時代の石への価値観に、もう一度目を向けてみて欲しいと思います。

 

また、この時代の石は、茶会の床に使われていたと書かれていて、当時の上流武家社会で、茶の道と共に、石は或る種のステイタスを示す役割をしていたようであると考えられます。

【黒髪山】

 

この【黒髪山】は今(1988年)から約200年前の寛政年間に、日光の東照宮修理の時、松平定信が職務のいとまに、日光の山中を逍遥していた折に、ふと発見した石であると書かれています。

 

また、後の画師、鍬形恵斎によって書かれた[黒髪山縁起絵巻 文化十年]によれば、幕府お出入りの畳大工・中村弥太夫が、国初潭海という本で日光に名石があることを知り、度々探索した結果、日光寂光権現の近くの民家に秘蔵されているのをつきとめ、数年に亘って交渉した結果、家伝の太刀と引き換えにしてようやく手に入れたとも伝えられています。

 

後に松平定信に請うて[黒髪山]の銘を得たとのことです。

 

そして、後に定信より徳川幕府に献上され、幕府より上野の寛永寺におくられて、以来寺宝として大切にされていたが、明治維新の彰義隊の戦いで、一時物置に入れられたまま行方不明になり、寺でもその存在すら忘れられていたという話です。

 

石の台も現代のものと趣が違っているし、大変念入りな仕事の箱に入っており、絵が描かれた由来記二巻があると言われ、当時いかに大切にされていたかがしのばれます。

【大和群山】

 

[やまとむらやま]と読むこの石は、頼山陽が残した数多い石の中の代表格の一つです。

 

昔はこのような具象的な山水景の石が天然にあったのかと羨ましい思いがします。

 

話によれば、京都で日本外史を執筆しながら、大原女の持ってきた石を全部手間賃で買い取り、気に入らない石は裏山に捨てたと言われていて、こうした石の中にこれがあったのでしょうか。

 

山陽以前の石は、一部の高貴な人々や、かぎられた人たちのものであったようです。

 

この本に、若い頃に藩籍を脱し、世に自由を求めた頼山陽によって、今まで縁遠い一般市民にまで石が広がったことは、特筆すべきであると述べられています。

 

但し、この石を[作り石]であると言う業者氏はおられます。さて??

写真で見る限りでは、山の頂点の辺りなどに、磨かれた肌の感じがした部分が見られます。故に、この部分のみで考えれば、全くの天然の肌でないことを否定できません。であれば「かたち」を変えることもできたかも知れません。

しかし、あの時代にどうやって磨いたのかを考えるだけで、その仕事をなさったお方の根性と結果の見事さに感動してしまいます。そして、お見事!の一語に尽きる思いに至るのです。

 

現代にも「作り石」と称して、グラインダー、サンドブラストなどの機械を使った全くの作り石というものがあります。多くのそれらは、妙なことに存在感の無いもの多いのです。

その上何故か品位が無く、印象に残りません。

これは、機械により[かたち]を変えることが容易に出来るので、楽な作業になり、安易な気持ちで仕上げをなさるからで、結果として「心又は魂」のこもったものにならないからでしょう。

 

この【大和群山】は、存在感、品位、印象に於けるインパクトに問題はありません。

問題ないどころか、それらに卓越しています。

 

故に、作り云々を言って軽視することは適切でないと考えるべきです。それより、現代に於いて[石で山水景を思わせる]石の原点の役目をしていて、今なお新しい感覚の一端を感じさせるものであり、この古い時代にこれが登場したのは、我々にとって恩恵であったと言うべきであると私は考えています。

【観世音立像】

 

【観世音立像】と銘じられたこの石は、頼山陽が残した石。

 

それらの中で、最も有名なものの一つと書かれています。 

 

今参考にしている[伝承石]なる本に載っている石は162種ですが、中の14種が人間か動物かの姿を髣髴させる、世に言う[姿石]です。

 

石に初めて出会う人の反応を観察していると、こちらが「山水石」と思っている石を見せても、何か生き物の姿を見出そうと努力するのをよく見かけます。

人によるでしょうが、どうも、現代の人たちは[山水石]より[姿石]の方により敏感のようです。

 

この[観世音立像]は、昔の加茂川の夥しい石の中で発見できたのでしょう。

 

山水石ばかりが喜ばれていた時代に選ばれ登場した姿石だけに、何とも高雅な雰囲気を漂わせています。

 

さて、この本に掲載されている石の、90%が、山水景を感じる石です。

 

 

頼山陽以前で、山水景以外の石を見ることは殆どありません。

 

 

私が石にのめり込んだのは、山の格好をした石を友人宅で見せられた瞬間に、好きになって、それを手元に欲しいと思ったのを契機にしています。

自分が生まれ育った場所は尾張平野の中央の田園地帯です。

子供の頃、夕方、西の夕日に映えた三重県の鈴鹿山脈から、雁が群れをなして北の長野県にある山岳へと空を飛ぶのを、夕日を浴びて田圃の藁の上で寝そべって眺めていた幼児体験で、「山がふるさと」のように深く心に根を下ろしているからと考えています。

 

幼児体験に自然の体験が少ない現代の人たちは、それ故に、[山水景を連想出来る石]より[姿を連想出来る石]に感度が強いと私は感じています。

 

自然の中で、自然と共に活きてきた昔の人たちが、山水石に敏感であったのは普通の成り行きであり、伝承の石が山水景ばかりであるのは当然の結果です。

 

突然に話題が変わりますが、ヨーロッパには、日本より寒い国にも大きい文化がある例が多く見られます。彼らの住居は、自然と対決しているかのように堅牢に出来ています。

昔の日本の住居は木で出来ていて、自然を感じ易くなっています。

雪の降る日に、寒さにもめげず障子を開け、侘びの世界に浸ったかもしれず、当時の日本人は、自然との融和が生活の根元にあったと考えて良い、と私は思っています。

厳しい自然と対決して暮らした西欧との違いはここにもあるようです。

しかし、今でも西欧では「緑」を大切にして生活しているのに、日本は、開発なる行いで自然を粗略に扱かってきました。近頃になり急に自然破壊を戒める話がありますが、これは何と愚かなことでしょうか。

 

ともかく日本は、機械化、ハイテク化に走りました。

何も疑わないかのように。

 

外界を感じにくい強固な壁面に守られた快適なマンションに住み、走り回る車を避け、ビルの谷間を歩き幼稚園・学校に通って育つ現代の日本の子供たちに「自然」はどんな風に映っているのでしょうか。

 

今の日本は、その昔、大自然に育まれて生きてきた人間の生活を見すごしているかのようです。そして、先祖の皆さんの原点であった[大自然]を見失ってしまったらしいのです。

 

かくして日本の[山水石]は終焉を迎えようとしています。

 

この育ちと生活をしている子供達の将来に[山水石]に心を動かす事になる要因を見出すことは出来ないと私は感じています。

 

このように考えると、現代の日本で[山水石]の終焉は避けられません。

 

 

 

 

しかし、そうであるから、見えない行く末に思いを馳せ、将来の何方かに読んで戴きたいと、ここで、私は集めた石の写真を載せ、[石を観る]ことに関し、私が到達し得た事を述べて行きたいと考えるに至りました。